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自筆下部に松平玉映の落款(印譜)がある。
《「日本外史」は、海外においてイギリス大英博物館に1部所蔵される貴重品》
(自筆の凹凸はストロボの反射によるものです。)
「額縁入自筆原本」
上記額は、海外展示の際に用いられた額です。
「自筆原本」
下部の「玉映」の印は松平玉映の落款。
《大坂冬の陣・大坂城天守閣二層に東軍の大砲が直撃・淀君驚き和議に応じる場面を記した原文
原本の来歴及び国内所蔵数については下記に記載
「日本外史」は、「女文字」による「隷書体」で記されております。イギリス・大英博物館には「日本外史」巻22が所蔵されております。大英博物館所蔵の「日本外史」は「文政十年(1827)」の記録があります。この本は、白河藩主・松平定信に献上され自筆の序文冒頭には、「上楽翁(松平定信)公書」、末尾には文政十年(1827)5月21日、序文の下に大垣藩医・江馬蘭斎の娘・細香の号である「湘夢」の押捺のある本と同じものです。大英博物館所蔵の「日本外史」1冊は、フランツ・フォン・シーボルトが持出し後に大英博物館に所蔵されたもので、シーボルトが仙台藩の医師であった杉田玄白の筆頭弟子である大槻玄沢が恩師・シーボルトに寄贈したものです。大槻玄沢の息子の磐渓が「日本外史」を写したことも広く知られております。「日本外史」は漢文で記されているため、武士が読むものでしたが、大名家の子女も広く読み、特に第13代将軍・徳川家定の正室・篤姫(あつひめ)の愛読書であったことは、NHK大河ドラマ「篤姫」の放映の中でも描かれておりました。 出品した松平玉映・自筆「日本外史」は「極細」の筆が用いられており、正確で精緻な筆の運びが「芸術的な領域に達している」としてアメリカでは高く評価されている。
海外展示に際し、断層写真により分析されております。原本を分析・解析するために海外の研究機関において「断層(MRI)写真」撮影等による新技術による分析・検査・証明が行われた後、一般の展示に付されたものです。
出品した自筆は、アメリカで撮影された下記「断層(MRI)写真」においてわかる通り、微細な曲線をも精緻に描いた極めて美しい芸術性の高い日本語の優れた文字としても高い評価を受けております。上から3番目の写真は、科学的で客観的な分析データを重視するアメリカの航空宇宙局(NASA)の技術による「断層(MRI)写真」です。「断層(MRI)写真」によって、古切の書の詳細を知ることができます。NASA(アメリカ航空宇宙局)の技術である「断層(MRI)写真」撮影を通して、日本の優れた伝統技術をアメリカ国内において広く知らせているものです。
(Ⅰ)・出品した原本の「漢文」は次の通りです。
《日本外史 巻之二十二 徳川史氏正記》
前將軍稽首曰。臣少慣軍旅。且職分所存。獨逸。勿勞聖慮。至於和議。
臣自修之。不足以辱天詔。使秀賴奉詔則可。若不奉詔。適增其罪。
臣則不得不誅夷之。是以敢辭。乃令女監阿茶如京師。迎常光氏。常光氏。
京極忠高母而淀君妹也。使之入城勸和。經工場而往。工人千百成群。造諸攻具。
飛橋。皆以千數。常光入城。具淀君。淀君初與秀賴巡視城。
見守兵頗壯也。大喜。遂上天主閣。以望東軍。則極目皆兵。旌旗際天。
淀君色動。已而備前島軍發大熕。中閣第二層。二女震。淀君始大驚。勸秀賴成和。
漢文の文責・出品者
注記・漢字が難字(旧字)の場合、システムの関係でエラーとなり画像に反映されない場合があります。 その場合、空白となりますが落札の際に出力文を交付いたします。「原文の読み下し文」と「現代語訳解読文」は、漢文の文字(難字・旧字)を正確に反映しております。
(Ⅰ)・出品した原本(漢文)の「原文の読み下し文(解読文)」は次の通りです。
《日本外史巻二十二 徳川氏正記 徳川氏五》
前将軍、頷(うなず)いてく、「臣、少(わか)きより軍旅に慣(な)る。且つ職分の存する所、
独り逸(いつ)すべからず。聖慮(せいりよ)を労するなかれ。和議に至つては、臣自らこれを修めん。
以て天詔(てんしよう)を辱(かたじけな)うするに足らず。秀頼をして詔(みことのり)を奉ぜしむれば
則ち可なり。若し詔(みことのり)を奉ぜずんば、適(まさ)にその罪を増さん。
臣則ちこれを誅夷(ちゆうい)せざるを得ず。ここを以て敢て辞す」と。乃ち女監(じよかん)
阿茶(あちや)をして京師に如(ゆ)かしめ、常光氏(じようこうし)を迎ふ。常光氏とは、
京極忠高(ただたか)の母にして淀君の妹なり。これをして城に入り和を勧めしむ。
工揚を径(みち)して往(ゆ)く。工人千百、群を成して、諸々の攻具(こうぐ)を造る。
飛橋(ひきよう)・(ふんおん)、皆千を以て数ふ。常光、城に入り、具(つぶさ)に淀君に説く。
淀君、初め秀頼と倶(とも)に城内を巡視(じゆんし)す。守兵の頗る壮鋭なるを見るや、
大に喜ぶ。遂に天主閣に上り以て東軍を望めば、則ち極目(きよくもく)皆兵にして、旌旗(せいき)、
天に際(さい)す。淀君、色動く。已にして備前(びぜん)島の軍、大熕(たいこう)を発して、
閣(かく)の第二層に中(あ)つ。二女、震(しん)す。淀君始めて大(おおい)に驚き、
秀頼に勧めて和を成さしむ。而(しか)・・・・《して常光の至るに会ふ。》
漢文の読み下し文の文責・出品者
(Ⅰ)・出品した原本(漢文)の「原文の現代語訳文」は次の通りです。
《日本外史巻二十二 徳川氏正記 徳川氏五》
《大坂冬の陣・大坂城天守閣二層に東軍の大砲が直撃・淀君驚き和議に応じる場面を記した原文》
徳川家康がうなずきながら言うには「私は若い時から軍事に慣れております。戦は武臣の職分であり、
自分ひとりが安逸を貪ることはできません。なにとぞ、おみこころを煩わされませぬように。
また、和議の一件は、私自らが整えようと存じます。詔を辱うするにはおよびません。
折角、詔を下されても、豊臣秀頼が詔(みことのり)を奉じればよろしいのですが、万一、詔を奉じなければ、
かえって違勅(いちょく)の罪を増すことになります。そうなれば、これを誅伐し平らげねばなりません。
それ故、ご辞退申し上げます」と。そこで、女監阿茶(あちゃ)の局(つぼね)を京都へやって、
常光院(じょうこういん・お初〕を迎えさせた。
常光院(お初)は京極忠高(ただたか)の母で淀君の妹である。やがて、彼女を城中に遣わして、
和睦を勧めさせた。たまたま、常光院(お初)はこちらの作業場を通って行った。
職人が千数百の群をなして、攻め道具を作っていた。かけ橋や、城攻めの車などは、みな千をこえるほどの
数であった。常光院(お初)は大坂城へ入り、淀君に詳しく説いた。
淀君は豊臣秀頼とともに城内を巡視した。守兵の気が盛んで強そうなのを見て、大いに喜んだ。
そこで、天守閣へ登って東軍を望むと、見渡す限りみな敵の兵士であり、その大小の旗は空を覆い隠すほどに
翻っている。淀君は顔色を変えた。やがて、備前島のわが軍片桐且元の陣が大砲を撃ち放つと、
天守閣の二階に中(あた)った。そしてニ人の腰元が倒れた。
淀君はここで初めて大いに驚き、豊臣秀頼に勧めて和議を成立させた。
現代語訳の出典・「日本外史」
訳・頼惟勤・お茶の水女子大学名誉教授(1922~)
「自筆の断層(MRI)写真」
(断層画像MRI-22-10-A) 印は、出雲国・松江藩主・松平治郷(不昧公)の娘・幾千姫(玉映)の落款(印譜)。
拡大画像によって大名の姫君らしいやさしく品格のあるおっとりとした書の勢いを確認することができる。
玉映のなめらかで、やわらかな書体は、茶室の雰囲気を重厚なものにさせた。
「参考資料・Ⅰ」
(1)・下の3枚の写真のうち、1段目の写真は、仙台藩主・姫君の嫁入道具。黒棚・厨子棚・書棚で「源氏物語」が調度品として置かれた。【宇和島伊達保存会所蔵】
幾千姫(玉映)の母・方子が出雲国松江藩主の正室として嫁入の際に持参し、江戸藩邸(赤坂)で用いていたと推定されている。(現存していない。)幾千姫(玉映)は、公卿の書、または母・方子の書を手本として、文机(ふづくえ)で「日本外史」を書き、左端の書棚の上に置いていたものと推定される。「日本外史」の書体は優雅で品格があり、書き終えた「日本外史」は、上の写真の棚に置かれていることを想像すると雅(みやび)な大名家の子女の姿が想像される。
(2)・2段目の写真は、「日本外史」を書いていた頃の邸跡
上の写真のうち下段の写真は、幾千姫(玉映)が生活していた松江藩・江戸屋敷の上邸跡。
写真は、東京・青山通りの沿いの「衆議院議長公邸と参議院議長公邸」の一帯、1万1942坪が、幾千姫(玉映)が住んでいた邸跡。右の建物が衆議院議長公邸、左が参議院議長公邸。
両公邸には、現在、「松江藩上屋敷跡」の案内板があり、そこに江戸時代、幾千姫(玉映)が「日本外史」を書いていたころの松江藩松平家の上屋敷があった。出品した「日本外史」を書いている幾千姫(玉映)の姿が想像できる。 海外展示の際には、原本のかたわらに上の写真が参考資料として掲示されておりました。現在の東京の中心部に位置した広大な邸の中で幾千姫(玉映)が、藩主の姫君として優雅で気品ある生活を営みそうした中で、「日本外史」が書かれていたことで、丸みの帯びたやさしい風合いのある字をしたためていたと推測されております。
松江藩は、出雲国松江藩、あるいは出雲松江藩とも称し単に出雲藩という場合もある。仙台藩の藩主が伊達家なので伊達藩と称する場合と同じ理由である。
(3)・3段目の写真は、「日本外史」原本の額縁裏面のラベル
「参考資料・Ⅱ」
(1)・下の1段目の写真は、「日本外史」国書総目録第六巻に記載されている国内の所蔵記録。
自筆(写本)は、国立国会図書館、東京大学史料編纂所、京都大学などに数部現存していることがわかる。
(2)・2段目の左の写真は、出品原本末尾の松平玉映の自筆の花押と落款。 花押と落款の右は、茶人の花押に収載された松平玉映の花押の資料
「参考資料・Ⅲ」
(1)・下の1段目の写真は、イギリス・大英博物館(ロンドン)の所蔵目録
上の2段目の写真は、「日本外史」巻22の所蔵されていることがわかる。所蔵記録から、フランツ・フォン・シーボルトが日本から持出、後に大英博物館に所蔵された。
頼山陽「日本外史」松平玉映・自筆(直筆)を出品 商品説明 「日本外史」松平玉映・自筆には、「松平玉映」の落款と末尾には花押が記されている。 「日本外史」は本来、二十二巻から構成される冊子本であるが、出品した自筆の体裁は、巻二十を長尺の一巻の「巻物」となっている。
女性の手による自筆「日本外史」は珍しく、他に頼山陽の弟子であった大垣藩の藩医・江馬蘭斎の娘で江馬細香が知られている。(所蔵経緯の詳細は下記説明欄に記載)。出品して「日本外史」自筆は、貴重な隷書体の書として身近なものとして鑑賞することができます。
松平玉映は、出雲松江藩主・松平治郷(不昧公)の娘であると同時に、仙台6代藩主・伊達斉村の孫であることから、「日本外史」のその書は茶人の武士や商人の間でも重宝され、茶道具として屏風や掛軸などに表装されるために分断された。三十六歌仙のような小切れとして1点ずつが貴重な茶会の道具として用いられた。
自筆 自筆切の稀少価値は、和紙の生成技法の緻密さにあります。上の「拡大断層(MRI)写真」でわかる通り、極めて薄い和紙の上に墨の文字がくっきりと浮き上がるように「日本外史」の文字が記されております。
出品している書の「断層(MRI)写真」の原板は、レントゲン写真と同じ新聞の半分ほどの大きさのフィルムです。落札後には、見やすいようにA4サイズの「光沢紙」に転写し交付いたします。肉眼では見ることのできない和紙の繊維の一本一本のミクロの世界を見ることができます。日本国内では医療用以外には見ることのできない書の「断層(MRI)写真」です。
古切の書は、一旦表装を剥離し分析と鑑定検査のために「断層(MRI)写真撮影」をしております。撮影後、展示のために再表装をしております。掛軸や屏風にすることが可能なように、「Removable Paste(再剥離用糊)」を使用しているため、隷書体による自筆の書に影響をあたえずに、容易に「剥離」することができるような特殊な表装となっております。
断層(MRI)写真 従来、日本の古美術の鑑定の際の分析・解析は、エックス線写真、赤外写真、顕微鏡が中心です。一方、アメリカやイギリスでは研究が進み和紙の組成状況を精確に分析・解析をするために断層(MRI)写真が利用されており、今回の出品に際し、「断層(MRI)写真」を資料として出しました。本物を見分けるための欧米の進んだ分析・解析技術を見ることができます。
寸法 「日本外史」原本の大きさ タテ22.5センチ ヨコ14.3センチ。額縁の大きさは、タテ40.0センチ ヨコ30.0センチ。額縁は新品です。
解読文 出品した書は、「漢文体」であるため解読のために「原文の読み下し文・現代語訳文」(解読文)を作成し、平易に解読し読むことができるようにしております。
稀少価値 筆者の玉映
松平玉映は、幾千姫(きちひめ)ともいう。文化2年(1805)6月13日~文久3年(1863)12月17日。59歳歿。出雲松江藩主・松平治郷(不昧)の四女。幾千姫は、側室シズの子であるが幕府へは不昧と方子の子(四女)として届出。方子は、母として幾千姫を養育し和歌などを丁寧に指導したことで知られる。幾千姫は、のち佐倉候堀田相模守正愛に嫁した後は、堀田玉映と称される。
書画、和歌に堪能で「玉映」と号した。和歌の書は父・不昧に類似し、和歌は母・方子【せい(靑に彡)せい楽院(仙台藩主・伊達宗村の娘)】の趣がある。
「日本外史」の外国語訳版では、 「NIKHON GAISI」V.M.Mendrin,1915,Vradivostok. があります。外国での展示に際し、上記「NIKHON GAISI」の表記ではなく、日本の国外における表記に準じ、「NIHON GAISHI」と表記。アーネスト・サトウは、明治5、6年頃「The Japan Mail」に「日本外史」の英訳を載せている。そのノートは、ケンブリッジ大学アストン文庫に残っている。
出品した「日本外史」の書は、小さな断片です。このような断片を「古切」という。 頼山陽の自筆原本の多くは、頼家のある広島市が昭和20年の原爆投下によってその大半が焼失したため、爾来、出品者宅においても厳重に保管されていた。「日本外史」は、元来、松平玉映の書として冊子や巻子(かんす)で伝えられたものが、鑑賞用として「茶人」の好みにより「掛軸」、或いは屏風に仕立てられ茶道具として用いられた。なお、自筆を断片化することを「古切」という。
国内における所蔵先等
出品作品と同じ「日本外史」の写本は、国立国会図書館(村瀬秋水・写)、東京大学、京都大学、大阪府(1冊のみ)など8箇所に現存。「国書総目録」第6巻379頁(岩波書店・刊)出品作品は、所蔵経緯、来歴が明確であるため極めて希少価値が高い。
松平玉映の自筆について 1・筆跡の分析と筆者の特定について
自筆は昭和39年以来アメリカの大学で分析され以後アメリカ国内で展示が継続されていた。一部が日本に戻り後の大半はまだアメリカで展示されております。自筆には、「松平玉映」の落款である「湘夢」の押捺、自筆署名の花押、及び三巻の巻物の「日本外史」原本を収納していた「桐箱」の中の付箋には、「細香之書、文政十年(1827)三月二十七日、頼先生から譲受」と記されている。この字を記したのは、仙台藩医・大槻磐渓である。磐渓の父・大槻玄沢は杉田玄白の筆頭弟子である松平玉映の父・江馬蘭斎の上司であった。
蘭斎は、江戸での学業を途中で打切り大垣藩の藩医となる。大垣藩で蘭医として名声の上がっている江馬蘭斎の許を頼山陽が訪れ蘭斎の娘・松平玉映に求婚するが父・蘭斎が断る。若い頼山陽の貧しさを父・蘭斎が嫌ったことが原因である。しかし、細香は頭脳明晰で漢文や詩文をこよなく愛し、その後頼山陽に弟子入りしている。
頼山陽は、早い時期から「日本外史」を書き始め、文化2年(1805)年3月20日の「大槻子縄(仙台藩学頭)に与ふる書」の中で「日本外史」を起草していることを示している。「日本外史」は「文政十年(1827)五月二十一日付」で白河藩主・松平定信に献上したものだが、献上以前に並行して仙台藩からも求められ頼山陽が弟子の松平玉映に写させていたと推定されている。
白河藩主・松平定信の献上の二ケ月前に大槻磐渓に渡されたのは、大槻磐渓の父・玄沢が病床にあったことが関係しているという説、及び白河藩より仙台藩の方が大藩であったことと、頼山陽が仙台藩から援助を受けていたことも関係しているとの説もある。また、大槻磐渓は、文政十年(1827)より以前に序文のない下書の「日本外史」を入手し「楷書体」による写しを進め、後年、前記の通り、磐渓の父の弟子である緒方洪庵に渡っていることがわかっている。
2・「松平玉映の自筆とアメリカの基準について」
①・自筆は「女文字」であり、同時に上記、花押、落款、及び来歴から「松平玉映・自筆」と確定される。なお、アメリカでの展示に際しては、科学的な筆跡全体の照合が条件として追加される。日本的な鑑定人による視覚による主観的な分析ではなく、科学的な解析手法である「ドーバート基準」による筆跡の分析が行われた。 「松平玉映・自筆」とし、「Mathudaira Gyokuei・Autograph」と表記された。
②・自筆の筆者の識別方法について
国内における鑑定人は、自筆の筆者を識別するために、個々の文字ごとに字画線の交叉する位置や角度や位置など、組み合わせられた字画線間に見られる関係性によって、個人癖の特徴を見出して識別する方法、また個々の文字における、画線の長辺、湾曲度、直線性や断続の状態、点画の形態などに見られる筆跡の特徴によって識別する方法、そして、書の勢い、速さ、力加減、滑らかさ、などの筆勢によって識別する方法が一般的な手法です。
一方、欧米では一般的には、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析をコンピューターの数値によって解析しております。数値解析は、文字の筆順に従いX、Y座標を読み、そのX、Y座標をコンピューターへ入力後、コンピューターによって多変量解析を行うものです。解析の基準となるのが「ドーバート基準」で、アメリカでは日本国内の画像データを自動的に収集、自筆の分析に際し、数値データをコンピューターで自動的に解析し「極似」した画像データによって筆者を識別する研究が進んでおります。
③・筆跡について
欧米では、筆跡の細部を検証するには人間の目ではなく、指紋の照合と同様アメリカではコンピューターが利用されております。資料として断層画像写真を出品欄に掲示しております。落札後の額縁裏面には説明文として、 「Nihon Gaishi・Mathudaira Gyokuei ・Autograph」 との表記されております。
上記英文の日本語訳は、「日本外史・松平玉映・自筆」
出品に際しては、アメリカの基準に準拠し説明欄に記載している。
第13代将軍・徳川家定の正室・篤姫と「日本外史」の関係 「日本外史」は第13代将軍徳川家定の正室の決定に大きな影響を与えたことが知られている。13代将軍家定の正室候補にあげられていた薩摩藩主・島津斉彬の娘・篤姫は老中たちの強い反対に遭遇していた。
徳川将軍家の正室は京都の公卿筋から選ぶべきだとの意見があり、その反対論を一蹴したのが「日本外史」であった。安政元年の春、薩摩藩江戸屋敷に水戸斉昭、山内豊信、伊達宗盛、松平春嶽などの幕府老中たちが薩摩藩主・島津斉彬を囲み「花見の宴」を開いていた。宴の目的は島津斉彬の娘・篤姫が将軍の正室にふさわしいかどうかを老中たちが見定めるためである。老中たちへの挨拶に訪れた篤姫に対し、水戸斉昭が篤姫の愛読書「日本外史」について質問する。篤姫は正確に受け答えをし、老中たちは篤姫のその読書量と理解の明晰さに感動したという。老中諸侯の反対論が一蹴されたことはいうまでもない。「日本外史」をきっかけにその場にいた老中たち全員が正室入輿の推進者となったと言われている。
水戸斉昭や伊達宗盛はこの時の様子を日記に記し、また篤姫の正室入りに最も強く反対していた福井藩主・松平春嶽は「斉彬公行状記」の中でこの時の篤姫の様子を「聡明にして温和、人との応接も機智に富み、学問(日本外史)深し。かくなる姫を御台所(正室)に迎えるは徳川家にとっても幸福というべきなり」と記している。その後、日本国内で「日本外史」を理解する篤学の女性として「東の篤姫、西の細香と玉映」とまで言われた。後年、松平玉映の漢詩が掛軸となり茶の道具として用いられるようになるのは、こうした歴史的背景がある。
HP 隷書体「日本外史」松平玉映・自筆の書を出品いたしました。出品以外の所蔵品を紹介した出品者のホームページ「源氏物語の世界」をご覧ください。
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